The Animal  Spirits Of

Star  Light

 シルバーバーチの動物の魂について書かれているものを

武本昌三先生のHPより抜粋したものです。

愛犬によりホメオパシーと出逢い、ホメオパスになり、

いろいろな動物と飼い主さんとお会いする貴重な機会を、たくさん頂きました。

その中で、私自身が見てきた動物の深い愛情と飼い主さんとの思いもよらぬ、

肉体を超えた深い絆を知る機会をたくさん得ました。

そして、友人のお母さまの葬儀のお手伝いをしながら、お母様とコンタクトさせていただいたのをきっかけに、友人のお母さま、友人を通じて

武本昌三先生と出逢い、武本先生のHPから

シルバーバーチの存在と言葉を知りました。

 

 

シルバーバーチの動物の魂についての言葉は、私が愛犬や様々な動物を通じ、

今まで体験し、思い、信じてきたものを、より確かなものとして

確信を持たせてくれました。

友人と、友人のお母さま、武本先生、そして、霊界とをつなぐ

息子さんの清典さんの尊い魂に深く感謝いたします。

 

シルバーバーチ、天国の愛犬たちや、たくさんの動物たちの魂に

敬意と感謝を感じながら、全てのいのちの尊さ、魂の尊さを、

このページから、より感じて頂けたら嬉しいです。


Silver birch

シルバーバーチ 

動物の魂についての言葉集

 76 動物 (進化・死後)

 

 76-a (動物も死後は飼い主といっしょに暮らすのか)

 どっちとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛がかかわっているからです。死後も生前のままの形体を維持するか否かはその動物に対する飼主の愛一つにかかっているのです。もしも動物とその飼主---この飼主(Owner)という言葉は好きではありません。他の生命をわがものとして所有する(own)などということは許されないのですから---その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼主のところで暮らします。愛のある場所が住処となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は住処がありますから動物界へ行く必要はありません。

 動物界に住むのは飼主より先に霊の世界へ来た動物にかぎられます。誰かに世話をしてもらわなくてはならないからです。さもないと、心を温めてくれただけでなく一時的にせよ"不滅生"の要素を吹き込んでくれた"愛"から切り離されて、動物といえども心を取り乱すことがあるのです。地上で人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けた飼主より先に他界した場合は、その主人が来るまで動物界へ行ってそこで面倒をみてもらいます。それはちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門家に預けるのと同じで、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.88-89

 

 

  76-b (動物への愛は死とともに終わることはない)

 長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは、法則の働きによって動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身につけたわけです。すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部はじめから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが目覚めるには神の息吹きが必要でした。

 さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなたがた人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込む能力を具えています。つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。それがその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命のすべてのカギです。動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同志でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。人間が可愛がる動物---犬、猫、その他のペット類---へ向けられる愛は死とともに終るのではありません。愛があればこそ生命は進化するのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)潮文社、1986、pp.89-90

     

 76-c (霊界の動物との生活はいつまでも続くのか)

 いえ、その点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても別れなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるかわかりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違います。より大きな光明へ向けて絶え間なく向上していく人間のペ-スについて行けなくなる時が来ます。人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、言いかえれば自分を地上と結びつけていた絆が切れたことを自覚すると、向上進化を求める欲求、内部の神性を発揮しようとする欲求が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力を他の生命の進化を援助する方向へと発揮しようとします。そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物はそのスピードについて行けなくなり、やがて死後も燃え続けた愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます。

    『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)潮文社、1986、p.91

 

 

  76-d (霊界では動物はやがて個性を失っていくのか)

 その通りです。そこに人間と動物の大きな違いがあるわけです。動物は類魂全体として未だ一個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物ではなくなり、人間の段階に到達したことになります。ペットとして可愛がられた動物は、人間の愛の力によって言わば進化の段階を飛び超えて人間と一緒に暮らすわけですから、その愛の糸が切れてしまえば、もとの類魂の中に戻るほかはありません。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)潮文社、1986、p.92

 

 

  76-e (動物の人間界への誕生の可能性)

 (動物の)人間界への誕生には二種類あります。 古い霊が再び地上へ戻ってくる場合と、"新しい霊" が物質界で個体としての最初の段階を迎える場合です。

 双方とも霊魂です。双方とも自我意識をもった霊であり個性をもった霊的存在です。ただ、一方がベテランの霊で、進化の完成のためにどうしても物質界で体験しなければならないことが生じて、再び地上へやってくるのに対し、他方は、やっと人間の段階にまで達した新入生です。直前まで動物だった類魂が人間界への仲間入りをしたのです。アメーバの状態から始まって爬虫類、魚類、鳥類、そして動物と、ありとあらゆる進化の段階をへて、今ようやく人間へと達したのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)潮文社、1986、p.93

 

 

  76-f (自然の摂理が完全なら動物界になぜ弱肉強食があるのか)

 おっしゃる通り摂理は完全です。たとえ人間にはその顕現のすべては理解できなくても完全です。(三千年もの)永い経験で私は自然の摂理には何一つ不完全さがないことを知りました。無限の叡智と無限の愛によって生み出されたものだからです。これまで何度も申し上げておりますように、創造活動のありとあらゆる側面に対応した摂理が用意されており、何一つ、誰一人として忘れられたり、放ったらかされたり、見落されたりすることがないのです。

 その一つである進化の法則は、存在と活動の低い形態から高い形態への絶え間ない進行の中で働いております。低い動物形態においては、見た目には残忍と思える食い合いの形を取ります。が、進化するにつれてその捕食本能が少しずつ消えていきます。先史時代をごらんなさい。捕食動物の最大のものが地上から姿を消し、食い合いをしない動物が生き残ってきております。これにはもう一つ考慮すべき側面があります。そうした動物の世界の進化のいくつかの面で人類自身の進化がかかわっていることです。すなわち人類が進化して動物に対する残忍な行為が少なくなるにつれて、それが動物界の進化に反映していくということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.178-179

 

 76-g (動物の中には進化して人間的資質さえ見せているのもある)

 それは当然そうあってしかるべきことです。どの種属においてもそうですが、進化の世界では未来において発揮されるものを今の段階で発揮している前衛的存在と、現在の段階で発揮すべきものすら発揮していない後衛的存在がいるものだからです。

 人類について言えは、天才、革命家、聖賢といった存在が霊的資質を発揮して、あすの人類のあるべき姿を示しております。人間として可能な最高の英雄的精神と奉仕的精神の見本を示しているわけですが、動物の世界にもそれに比肩しうるほどの資質を、他の仲間から抜きん出て発揮するのがいます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.179-180

 

  76-h (大自然はなぜ捕食動物のような悪い見本を用意したのか)

 大自然が悪い見本を用意するようなことはしません。大自然は宇宙の大霊すなわち神が顕現したものです。神は完全です。神の摂理も完全です。大自然は、その本来の仕組みどおりに働けばかならずバランスと調和が取れるようになっているのです。人間が自然と調和して生きれば、地上はパラダイス、神の御国となります。

 たしかに捕食動物はいますが、それは〝適者生存〟の摂理の一環であり、しかも大自然の摂理全体のほんの小さな側面にすぎません。自然界の本質は協調です。共存共栄です。たとえてみれば人間は地球の庭師のようなものです。植物の本性に合わせて手入れをしておれば庭は美しくなります。今では人間が捕食動物となっています。何百万年もの歴史の中で人間ほど破壊的な生物はおりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、p.180

 

  76-i (病気を予防するために殺虫剤を使用することも間違いか)

 すべての生命に敬意を抱かねばならないのは言うまでもないことですが、これも動機と程度の問題です。特殊な環境において病気の原因となる虫が発生するので殺虫剤を使用するという場合は、その動機は正しいと言えます。生きるための環境条件を確保する必要を考慮に入れなければいけません。たとえばダニが発生した場合、その家に住む者の健康を確保するという動機からであれば、スプレーして駆除してしまった方がくつろいで暮らせます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、p.181

 

  76-j  (知的な動物が死後人間界へ進化していくことはあるか)

 進化も自然の摂理の一部です。これにも一本の本流とたくさんの支流とがありますが、全体としては同じ摂理の一部を構成しております。あなたがた人間に潜在している霊性と動物のそれとは質的にはまったく同じものです。程度において差があるだけで本質においては差はありません。霊は無限ですから、可能性としては人間においても動物においても驚異的な発現力を秘めておりますが、霊的には両者とも一本の進化の道に属しております。その道程のどの時点で動物へ枝分かれし、どの段階で人間へ枝分かれするかは、誰にも断定できません。私はそこに取り立てて問題とすべき要素はないと思います。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.181-182

 

  76-k (動物も人間と同じコースをたどって進化するのか)

 動物には動物としての進化のコースがあります。それも進化活動全体の背後にある同じパターンの一部です。動物の場合は(進化というよりは)一種の発達過程です。もしも私から〝子供はみんな両親と同じように進化するのでしょうか″と尋ねたら、答えは〝イエス〟でもあり〝ノー〟でもあるでしょう。子供にはそれぞれにたどるべき人生のパターンがあらかじめ定められております。が、そのパターンの範囲内において、それまでに到達した霊的意識の段階によって規制された自由意志の行使が許されております(それが進化の要素となるー訳者)。霊を宿した存在には無限の可能性があります。

 動物には動物なりの、進化の全過程の中で果たすべき役割があり、それを基準とした進化のコースをたどります。やはり因果律が絶対的要素です。今現在あるものはすべて、かつてあったものの結果です。動物も宇宙進化の大機構で欠かすことのできない存在であり、それは山川草木、海、そのほか自然界のあらゆるものが欠かせない存在であるのと同じです。

 それらを一つにまとめている絆が〝霊″です。生命は一つなのです。人間は動物とつながっているだけでなく、生命あるものなら何とでもつながっているのです。ただし、それらはそれぞれに定められた進化のコースをたどります。そして、それらがどこまで進化するかは、それぞれの次元での進化の法則によって決まります。花、木、小鳥、野生動物、そして人間と、それぞれに適応した法則があるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.182-183

 

  76-l (死後の動物が類魂の中に帰らず地上の姿でいる場合もある)

 人間と親密な関係にあった動物にかぎって、個体を具えたままの存続が可能なのです。そうした動物は地上にいる時から、類魂としての本能のまま生きる動物には得られない、個体としての進化が促進されております。それは人間と動物との間で霊的進化を促進し合うという、すばらしい関係の一例といえます。動物が皆さんとともに同じ環境で過ごすということは、そうでない場合よりもはるかに人間らしい個性的な意識を発達させることになるのです。そうした〝人間的″表現というものに縁のなかった動物は類魂の中に埋没していきます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.185-186

 

  76-m (人間の優しさが動物の進化を促進することになるのでは)

 それも一本の進化の大木の枝のようなものです。進化の道が枝分かれして発展したものです。そこにおいては、優しさが優しさを呼び、哀れみが哀れみを呼び、愛が愛を呼び、憎しみが憎しみを呼びます。ですから、人間は常に最高の理想を目標としなければいけないことになります。そう努力することの中で、人間と動物とが進化の道程でお互いに促進し合うことになるのです。それはすべての生命が一つだからです。物質的にはさまざまな区別がありますが、霊的には一つです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.186-187

 

  76-n (人間に愛され進化を促進された動物は死後再生するか)

 輪廻転生説というのがあるようですが、動物は再生しません。

 人間に可愛がられた動物は、霊界でずっと待っていて、その人が他界してきた時に出迎えます。永遠に消滅することのない個的存在を与えてくれた人ですから、必要なかぎりずっと待っています。存続するのはその個的存在です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、p.187

 

 

  76-o (動物は人間との縁で個的存在の獲得が意図されているのか)

 そうです。人間がその思考と行為において動物に対する愛を発揮すればするほど、動物の方も愛を発揮するようになり、それこそ、聖書の中のオオカミと小ヒツジの話のように、人間と動物とが並んで寝そべるようになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.187-188

 

 

  76-p (人間が生きるための動物の屠殺は神の愛と矛盾しないか)

 自分たちで勝手に動物を殺しておいて、神がそうせざるを得なくしているかにお考えになってはいけません。どちらにするかは、あなた方が決めることです。動物を殺さないと生きて行けないというものではありません。が、いずれにせよ、答えは簡単です。そうした問題をどう処理していくかによって人類の進化が決まるということです。自分たちのやっていることに疑問を感じるようになれば、その時、あなたの良心が次の答えを出します。

 人間は自分のすることに責任を取ることになっており、その行為の一つ一つが、その人の霊性に影響を及ぼします。その際にかならず考慮されるのが動機です。動機にやましいところがなく、どうしても殺さざるを得なかったという場合は、その行為はあなたの成長にプラスに働きます。

 霊的摂理は原因と結果の関係、タネ蒔きと刈り入れの原理の上に成り立っており、これは絶対にごまかせません。あなたのすること、考えること、口にすることの一つ一つがそれ相応の結果を自動的に生み出します。そこにごまかしは利きません。悪いと知りつつ間違ったことした場合は、その結果に対して責任を取らされます。その結果としての苦しみは自分で背負わねばなりません。

 良い行いをする場合でも、それが見栄から出ているのであれは動機がお粗末でいけませんが、魂の自然の発露として善行を施した場合は、そういう行いをしたという事実そのものが、あなたを霊的に向上させます。それが摂理というものなのです。

 私が常々申し上げているのは、〝殺害″の観念がつきまとう食糧品はなるべくなら摂取しない方がよいということです。殺すということは絶対にいけないことです。ただし、その動機を考慮しなければならない場合があることは認めます。

 霊的向上を望む者は、いかなる犠牲を払っても大自然の摂理と調和して生きる覚悟ができていなければなりません。その摂理は霊的なのです。霊が発揮すべき側面はいつの時代も同じです。愛と慈悲と寛容と同情と協調です。こうした原理にしたがって考えれば、食すべきものを食し、飲むべきものを飲み、正しい生き方に導かれます。しかし、最終的に選択するのはあなた自身です。そのために神は自由意志というものをお与えになっているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.188-190

 

 

 76-q (動物に投与している抗生物質などが人間の体内へ入ってきている)

 それは、他の生命に害悪を及ぼすと必ずそれに対して責任を取らされるという、大自然の永遠のサイクルの一環です。他の生命に残酷な仕打ちをしておいて、それが生み出す結果を逃れるということは許されません。貪欲以外に何の理由づけもなしに動物をオリの中で飼育し、動物としての本来の権利を奪うことは、悪循環をこしらえることにしかなりません。そのサイクルの中で因果律が生み出すものに対して、人間は苦しい代償を支払わねばなりません。動物であろうと花であろうと小鳥であろうと人間であろうと、自然界全体が恵んでくれる最高のものを得るには、慈悲と愛と哀れみと親切と協調しかないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.190-191

  76-r (動物実験は真に役立つものではないという認識について)

 動物実験によって何一つ役立つものが得られないというわけではありません。が、その手段は間違っていると申し上げているのです。何の罪もない動物に残酷な仕打ちをすることは霊的なことすべてに反するからです。

 人間は自分のすることに責任を取らされます。動機は正しいといえるケースも沢山ありますし、それはそれとして霊的発達に影響を及ぼします。摂理とはそういうものなのです。がしかし、神は、子等が動物への略奪と残忍な行為によって健康になるようには計画しておられません。それは改めて強調する必要を認めないほど明らかなことでしょう。

 学者が道を間違えているのはそこのところです。人間の方が動物より大切な存在である。よってその動物を実験台として人間の健康と幸福の増進をはかる権利がある、という弁解をするのですが、これは間違っております。

 共存共栄こそが摂理なのです。人間がその責任を自覚すれば、哀れみと慈悲の心が生まれてくるはずです。他の生命を略奪しておいて、その結果として自分に及ぶ苦しみから逃れられるものではありません。略奪行為は略奪者自身にとって危険なことなのです。残虐行為はそれを行う人間にとって罪なことなのです。愛を発揮すれば、それだけ自分が得をするのです。憎しみの念を出せば、それだけ自分が損をするのです。摂理がそういうふうに出来ているのです。

 したがって当然、みなさんは動物への残虐行為を減らし、もっと良い方法、哀れみに満ちた手段を教えるための努力をすべきです。人々に、みずからの生活を規律正しくし自然の摂理と調和して生きる手段を教えてあげれば、みんな元気で健康で明るさいっぱいの人間になれるのです。

 霊的にみて間違っていることは決して許されるものではありません。しかし、不完全な世界においてはある程度の間違いと行き過ぎはやむを得ません。そうした中にあって皆さんが、平和と友好と和合と愛の中で暮らすべき全生命の福祉を促進するために闘うべきなのです。愛とは摂理を成就することなのです。他の生命に残酷な行為をしているかぎり、愛を成就しているとは言えません。ナザレのイエスは自分の敵に対して向けられる愛を最高のものとしました。もとより、これは生やさしいものではありません。情愛、共感、近親感を覚える者を愛することは容易です。しかし、とかく敵対関係になる相手を愛することがもし出来れば、それは神の御心の最高の表現であると言えます。

 何ごとにつけ、価値あるものは成就することが困難にできあがっているのです。もしも霊的進化がラクに達成できるとしたら、それは達成するほどの価値はないことになりましょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.191-193

 

  76-s (動物は人間に虐待され屠殺されるために生まれてくるようなもの)

   ---「霊的に正しければ物的な側面も正しくなるとおっしゃったことがありますが、地上の動物についてそれをどう当てはめたらよいのでしょうか。人間によって虐待され屠殺され誤用されるために生まれてくるようなものです。動物は霊的に何も間違ったことはしていないはずですが」という質問に対して---

 そうではありません。動物の霊は、霊は霊でも人間の霊とは範疇が違います。人間には正しい選択をする責任が負わされています。そこに自由意志があります。進化の計画を促進することもできれば遅らせることもできます。つまり、限られた範囲内においての話ですが、地球という惑星でいっしょに暮らしている他の生命をどう扱うかについて自由意志を行使することが許されております。地上は悪用・濫用・誤用だらけです。その中でも決して小さいとは言えないのが動物への無用の虐待と略奪です。しかし、人間が進化していくにはそうした過程もやむを得ないのです。もしも人間から自由意志を奪ってしまえば、インディビジュアリティを進化させ発展させていくチャンスが無くなります。そこが難しいところなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、p.194

 

  76-t (動物への虐待が生じることが許されるというのが理解できない)

 〝生じることが許される″という言い方をなさるということは、あなたは人間から自由意志を奪い去った方がよいとお考えになっていることになります。くり返しますが、もしも人間が自由意志を奪われたら、ただの操り人形でしかなくなり、内部の神性を発揮することができなくなります。霊的本性が進化せず、地上生活の目的も果たせません。あなたが地上に生をうけたのは、地上が霊の保育所であり、学校であり、訓練所だからです。さまざまな挑戦にあい、それを克服していく中で自由意志を行使してこそ、霊は進化できるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.194-195

 

  76-u (人間が悪いことをして動物が犠牲を払うのは間違いではないか)

 埋め合わせと懲罰の法則というのがあります。あなたが行う尊いこと悪いことのすべてが、自動的にあなたに霊的な影響を及ぼします。大自然の因果律は絶対に免れません。埋め合わせと懲罰の法則はその大自然の中核をなすものです。罪もない人民が支配者の横暴な振舞いによって被る犠牲に対して埋め合わせがあるように、残虐な取り扱いをうけた動物にもそれなりの埋め合わせがあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.195-196

 

  76-v (人間はこれから先も動物虐待を続けていくのではないか)

 いえ、そうとばかりも言えません。他の生命に対する責任を徐々に理解していくでしょう。人間は進化しつつある世界での進化しつつある存在です。絶頂期もあれば奈落の底もあり、向上もすれば転落もします。進化というのは螺旋形を画きながら進行するものだからです。しかし全体としては少しずつ向上しています。さもないと進化していないことになります。無限の叡智と無限の愛によって、すべてのもの、すべての人間についてしかるべき配慮が行き届くように、ちゃんとした構想が出来あがっていることを認識しなくてはいけません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.196-197

 

  76-w [50-g] (人間は動物を虐待していながらうまく罪を免れている)

 うまく罪を免れる人は誰一人いません。摂理は間違いなく働きます。たとえ地上で結果が出なくても、霊界でかならず出ることを私が断言します。因果律はいかなる手段をもってしても変えられません。永遠に不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があればかならず結果が生じます。それから逃れられる人は一人もいません。もしいるとしたら、神は神としての絶対的な資格である完全なる公正を失います。

 そのこととは別に、もう一つ私がいつも強調していることがあります。残念ながら人間は宿命的に(五、七十年という)ほんの短い視野しか目に入らず、永遠の観念で物ごとを考えることができないということです。あなた方には地上で発生していることしか見えませんが、その結果は霊界で精算されるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.197-198

 

  76-x(神の御心に従えば動物が実験材料にされることもなくなる)

 その通りです。ですから、われわれは今後とも啓発と真理の普及を、いつどこにいても心掛けなくてはならないのです。その妨げとなるものを一つでも取り除くことができれば、そのたびにそれを喜びとしなければいけません。霊の力は単なる変革をもたらすのではありません。そこに進化があります。地上の人間が大自然とその背後に秘められた莫大な力から絶縁した行為をすれば、それに対する代償を支払わねばなりません。

 人間は霊的属性、霊的潜在力、霊的才能をたずさえた霊的存在です。自分だけでなく他の存在、とくに動物の進化を促進することになる生き方をする能力を具えているのです。進化の生き方をする能力を具えているのです。進化の大計画は何としても達成しなければなりません。それを人間が邪魔をして遅らせることはできます。が、完全に阻止することは絶対にできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.198-199

 

   76-y (動物は下等といわれたりするが人間とは進化の道が違うのか)

 いえ、進化は全生命が一丸となって歩むものです。進化の法則はたった一つあるのみで、それが生命活動の全側面を規制しております。

 いつものことながら、用語が厄介です。〝下等動物″という用語を用いれば、動物は人間と同じ意識段階まで到達していないことを意味します。たしかに動物には人間のような理性、理解力、判断力、決断力をつかさどる機能が仕組まれておらず、大部分が本能によって動かされているという事実から言えばその通りです。ですから、そうした限られた一つの視点から観れば動物は ”下等”と考えることができます。しかし、それですべての検証が終わったわけではありません。

 動物に教えられることが多いのは当然のことです。動物は忠誠心、愛着心、犠牲心、献身といった資質をけなげに表現しますが、これは人間が学ぶべきすばらしい手本です。しかし人間はそれらを意識的に、そしてもっと高度に発揮できます。なぜなら、動物よりも意識の次元が高いからです。ただし、ここでは霊的意識のことではありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.199-200

 

  76-z (飼い猫は人間には見えない霊の存在に気づいているのか)

 もちろん気づいております。人間に見えなくなったのは、あなた方の文明---時としてそう呼ぶのはふさわしくないことがあるのですが---それが人間生活を大自然から遠ざけたことに原因があります。つまり大自然がもたらしてくれる能力と力から人間が絶縁しているのです。そのために文明人は大自然と密接につながった生活をしている人種よりも心霊能力が発達を阻害されているのです。

 一般的に言って、家庭で飼われている動物は文明の恩恵は受けておりません。動物の方がその飼い主よりも自然な超能力を発揮しております。そういうわけで、残念ながら動物の方が霊的存在について人間よりも自然な形で意識しております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、p.201

  

 76-za (動物愛護運動に生涯を捧げている或る夫妻へのことば =1=)

 あなた方(Michael & Armand Denis)は肉体に閉じ込められているために、ご自分がどれほど立派な仕事をされたかご存知ないでしょう。お二人は骨の折れるこの分野を開拓され、人間と動物との間に同類性があり従ってお互いの敬意と寛容と慈しみが進化の厳律であることを見事に立証されました。

 大自然を根こそぎにし、荒廃させ、動物を殺したり、(実験で)片輪にしたりするのは、人間のすべきことではありません。強き者が弱き者を助け、知識あるものが無知なるものを救い、陽の当たる場所にいる者が片隅の暗闇を少しでも無くすための努力をすることによって、自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのです。

 その点あなた方は大自然の大機構の中での動物の存在意義を根気よく紹介され、正しい知識の普及によく努力されました。それこそ人間の大切な役割の一つなのです。地上の難題や不幸や悲劇の多くが人間の愚かさと自惚れによって惹き起こされていることは、残念ながら真実なのです。

 慈しみの心が大切です。寛容の心を持たなくてはいけません。自然破壊ではなく、自然との調和こそ理想とすべきです。人間が争いを起こすとき、その相手が人間どうしであっても動物であっても、結局は人間自身の進化を遅らせることになるのです。人間が動物を敵にまわしているうちは自然界に平和は訪れません。平和は友好と一致と協調の中にこそ生まれます。それなくしては地上は苦痛の癒える時がなく、人間が無用の干渉を続けるかぎり災害は無くなりません。人間には神の創造の原理が宿っているのです。だからこそ人間が大自然と一体となった生活を営むとき地上に平和が訪れ、神の国が実現する基礎ができるのです。

 残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が、愛は愛を呼び、慈しみは慈しみを生みます。人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間みずからが破滅の道をたどることになります。ことわざにも“風を蒔いてつむじ風を刈る”と言います。悪いことをすればその何倍もの罰をこうむることになるのです。

 何ものにも憎しみを抱かず、すべてに、地上のすべての生命あるものに愛の心で接することです。それが地上の限りない創造的進化を促進するゆえんとなります。それは、人間がその一部を占めている進化の機構の中で為しうる最大の貢献です。

 挫けてはなりません。あなた方の仕事に対して人はいろいろと言うことでしょう。無理解、無知、他愛ない愚かさ、間抜けな愚かさ、心ない誹誘、等々。これには悪意から出るものもありましょうし、何も知らずに、ただ出まかせに言う場合もあるでしょう。それに対するあなた方の武器は、ほかならぬ霊的知識であらねばなりません。所詮はそれがすべての人間の生きる目的なのです。霊的知識を理解すれば、あとは欲の皮さえ突っ張らなければ、神の恩恵に浴することができるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.202-204

 

  76-zb(動物愛護運動に生涯を捧げている或る夫妻へのことば =2=)

 お二人は多くの才能をお持ちです。まだまだ動物のために為すべき仕事が山ほど残っております。地上の生命は全体として一つのまとまった生命体系を維持しているのであり、そのうちのどれ一つを欠いてもいけません。お二人が生涯を傾けておられる動物は、究極的には人間が責任を負うべき存在です。なぜならば、人間は動物とともに進化の道を歩むべき宿命にあるからです。ともに手を取り合って歩まねばならないのです。動物は人間の食欲や道楽の対象ではないのです。動物も進化しているのです。

 自然界の生命はすべてが複雑にからみ合っており、人間の責任は、人間どうしを超えて草原の動物や空の小鳥にまで及んでいます。抵抗するすべを知らない、か弱い存在に苦痛を与えることは、ぜひとも阻止しなくてはなりません。

 装飾品にするために動物を殺すことは、神は許しません。あらゆる残虐行為、とりわけ無意味な殺生は絶対に止めなくてはなりません。物言わぬ存在の権利を守る仕事にたずさわる者は、常にそうした人間としての道徳的原理に訴えながら闘わなくてはいけません。小鳥や動物に対して平気で残酷なことをする者は、人間に対しても平気で残酷なことをするものです。

 動物への残忍な行為を見て心を痛め涙を流す人は、いつかはきっと勝つのだという信念のもとに、勇気をもって動物愛護のための仕事を続けてください。多くの残酷な行為が、無知であるがゆえに横行しています。それらは、霊的知識を知って目が覚めればたちどころに消えてしまうのです。また、一つの霊的知識に目覚めると、その知識のもつ別の意義にも目覚めてくるものです。その時こそ魂が真の自由への道を歩み始めた時でもあるのです。

 動物と人間とは、進化のある段階でどうしても別れ別れにならざるを得なくなります。地上の年数にして何万年にもなるかも知れませんが、動物と人間とでは霊的進化のスピードが違います。より大きな光を求めて絶え間なく成長していく人間の魂についていけなくて、動物は置き去りにされることになります。

 いったん物質のベールをくぐり抜けて霊界入りし霊的生活環境に慣れてくると、つまりあなたを地上に縛りつけていた絆が切れたことを認識すると、進歩しようとする欲求、内部に渦巻く神性を開発しようとする欲求が加速されます。いつどこにいても、修行次第で自分をいっそう役立てることを可能にしてくれる資質を開発しようとします。その霊的開発の分野において高く昇れば昇るほど、動物はついていけなくなります。そして、死後もなお炎を燃やしつづけた愛が次第に衰えはじめます。やがて炎がチラチラと明滅しはじめ、最後は同じ種属の類魂の中へ融合していきます。

 創造物全体の進化を支配する総合的機構は一つあるだけですが、それぞれの顕現の形態にそれなりの異なった進化のコースがあります。人間が成就している個別的意識をもつに至っていない動物には、種属全体としての類魂があります。もっとも、同じ種属の動物でも人間との接触を通じて個別化を促進されて、人間に似た形態の個別的意識をもつに至っているのもいます。

 全体としての類魂もいつまでも同じ状態にあるのではなく、つねに進化しております。高級界の神霊が人間に対する責任を自覚しているごとくに人間が地上の全創造物に対する責任を自覚するようになれば、動物の進化が加速され個別化が促進されます。しかし、人間との関係がよほど接近しないかぎり、ある程度まで同一方向ではあっても、進むコースは別々です。進化が進むにつれて類魂の数は少なくなり、個別化された魂が増えてまいります。

 全生命を通じて“霊”という共通の近親関係が存在します。生命のあるところには必ず霊が存在します。人間の残忍性は動物の進化を遅らせるという形で反映します。それは人間の野獣性がみずからの進化を遅らせるのと同じことです。そのプロセスは同じです。全生命は協調、すなわちそれぞれが自分を役立てるということによって互いの進化に貢献し合うように意図されているのです。

 何ごとにつけ動機が重大な要素となります。愛する動物が手の施しようのない状態となっている時、これ以上苦しませるのが忍びなくて地上的生命に終止符を打たせる処置を取るのであれば、その動機は正当です。しかし動物の生得の権利を完全に無視して一かけらの同情心もなしに屠殺するとなると、その動機は利己的です。それは人間自身にとっても動物にとっても良かろうはずはありません。そこで、殺された動物の霊を何とかしてやらねばならなくなります。人間の場合、死産児や天折した子の霊は地上で味わうべきであったものについて埋め合わせが行われますが、動物の場合も同じで、地上で得そこなったものについて埋め合わせがあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.204-207

 

  76-zc(動物愛護運動に生涯を捧げている或る夫妻へのことば =3=)

 あなた方はみずからの意志を行使できない生命---その愛情と忠誠心と信頼と献身とが不幸にして、自分たちのしていることがいかに間違ったことであるかを知らない人間による情け容赦ない残虐行為によって皮肉な報復を受けている動物の保護のために献身しておられます。動物虐待は人間が気取って“文明”などと呼んでいるものにとっての大きな汚点であり、邪悪な汚辱です。

 西洋人は私たちレッドインディアンを野蛮人と呼びますが、人間と同じ霊によって生命を与えられ同じ進化の道を歩みながら、一方的に人間によって略奪され苦しめられてきた動物に対するこれまでの人間の態度は、それに劣らず野蛮です。

 お二人がこの道に導かれたのは決して偶然ではありません。霊的熟達の極印は哀れみの情にあるからです。哀れみのないところに霊的進化はありません。すべての存在、すべての動物、あらゆる生物、地上に存在する霊的顕現のすべてに対して哀れみの情を向けなくてはいけません。進化の道を少し先まで進んだ者は、共有している世界の不可欠の存在であるすべての人間、すべての生物に対して責任があることを自覚するものです。

 抵抗する勢力がいかに強かろうと、障害や困難が見た目にいかに大きかろうと、善いことのために払われた犠牲はけっして無駄にはなりません。今たずさわっておられる闘いは最後には必ずや勝利をおさめます。なぜなら、最後には真実が勝利をおさめるからです。これからたどられる道もけっして容易ではありません。しかし先駆者たる者、大胆不敵な魂は、気楽な生活を期待したり蓮の台の生活を夢見たりするようなことがあってはなりません。魂が偉大であるほど、要請される仕事も大きなものとなるものです。

 申し上げるまでもないことと思いますが、地上であなた方とともにこの道にたずさわっている同志のほかに、私たちの世界でもあなた方に協力せんとして、霊の大軍が控えております。その先頭に立って指揮しているのが地上でアッシジの聖フランチェスコと呼ばれていた人物です。地上時代にもこの悪弊の改善運動に全身全霊を捧げ、今また霊界からたずさわっているパイオニアには長い長い系譜があるのです。

 時として味方であるべき人物が敵にまわることがあります。また時として、悲しいことですが、この道にたずさわっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします。万が一そういう事態になった時は、それは本来の道を見失ったわけですから、その人のために蔭で涙を流しておやりなさい。

 私たちから要求することは、あなた方に啓示された光明にひたすら忠実であってくださる---それだけです。自分を役立てるという目的にひたむきでありさえすれば---これ以上の崇高な宗教はないのです---自動的に莫大な霊の力を呼び寄せ、それが数々の障害を取り除き、神の慈愛あふれる意志が地上に顕現されることになるでしょう。

 生命はその全側面において互いに混じり合い依存し合っております。そこに一種の親族関係ともいうべき密接なつながりがあります。生命は無限ですから、その顕現もまた無限の形態をとっております。どの部分も他と切り離されて存在することはできません。

 動物の中には人間との接触を通じて、人間とよく似た個的意識が芽生えているものがいます。もとより人間が動物に個別性を賦与するわけではありません。それは出来ませんが、潜在しているものを加速させることはできます。それは皆さんが精神統一その他の修行によって内部の霊的能力を開発するのと同じです。感性を具えた存在に永遠の資質を賦与することができるのは宇宙の大霊すなわち神のみです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.207-210

 

  76-zd(動物愛護運動に生涯を捧げている或る夫妻へのことば =4=)

 動物の魂も本質においては人間の魂とまったく同じです。双方とも同じ神から出ているのです。違うのは質ではなく程度です。動物と人間とでは発達の法則が同一方向ではあっても別々になっております。地上に生をうけた目的を果たして霊界入りし、他界直後の余波がおさまると、両者は別れ別れになります。

 このように、両者にはそれぞれに果たすべき役割があります。人間は地上での人物像、つまり肉体器官を通じての魂の部分的表現が次第に消え、反対に霊的本性が開発され、潜在する完全性がより大きな発現の機会を得ます。永遠の時をへて成就される完全性へ向けて向上するにつれてパーソナリティが減り、インディビジュアリティが増えていきます。また動物は人間との愛の絆があるかぎり、目的を果たすまで人間とのつながりを維持します。

 すべての〝種″に地上界と霊界とで果たすべき役割があります。何の原因もなしに、つまり偶然に存在するものは一つもありません。神の完全なる構想によって、あらゆる創造物、あらゆる生命がそれなりの貢献をするようになっているのです。用もない種が地上に発生したために絶滅させなければならなくなったなどということは絶対にありません。人間が地上で最大の破壊的動物であってはならない理由はそこにあります。

 野生動物と人間との共存共栄が次等に当たりまえのこととなりつつあります。それは人間の動物への愛が大きくなって恐怖の壁が崩されつつある証拠です。人間がもしもこれまでのように動物を屠殺したり狩猟をしたり威嚇したりすることがなかったら、動物の側に恐怖心というものはおきなかったはずです。進化の促進のために人間とのつながりを求める動物もいるのです。身体機能上の進化ではなくて心霊的進化です。

 しかし進化とは一直線に進むものでないことを忘れてはなりません。上昇と下降とがあります。スパイラルに進行します。感激的な絶頂にまで上がる時があるかと思えば、悪魔に呪われたようなドン底へ落ちる時もあります。そうした中にも計画は着実に進展し、進化が成就されていくのです。

 愛が愛としての本来の威力を発揮するようになれば、すべての創造物が仲良く暮らせるようになります。地球という生活環境を毒し問題を発生させる不協和音と混沌のタネを蒔くのは、人間という破壊主義者、人間という殺し屋です。すべての問題は人間がこしらえているのです。神が悪いのではありません。動物が悪いのでもありません。人間が自由意志の行使を誤り、(万物の霊長だなどと)勝手に優越性を誇ったためです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.210-212

 

  76-ze (他界した妻から動物愛護運動家の夫に対する伝言)

 奥さんからの伝言ですが、奥さんはあなた(デニス氏)がその後も動物愛護の仕事---あなたとともに生涯をかけた、動物への無用で愚かで邪悪な残虐行為を止めさせるための仕事をずっとお続けになっていることを喜んでおられます。これはまさに文明の汚点、恥ずべき汚辱です。全生命の同一性を理解しておられる皆さんは、下等な存在と見なされている動物が本来の権利を存分に発揮できるようにしてあげるための闘争に嫌気がさすようなことがあってはなりません。

 虐待、残忍、苦痛、無益な流血への挑戦を続けてください。その価値ある闘争におけるあなたの役割を存分に果たしてください。最後はかならず善意が愚行に打ち勝ちます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、p. 212

 

  76-zf (残虐行為をしている側が勝っていると思える場合があるが)

 光が闇を征服するように、善はかならず悪を征服します。闇の力は光には勝てませんし、悪の力も善の力には勝てません。気落ちしてはなりません。あなた(デニス氏)の背後には、かつて地上で同じ仕事に献身し死後も引き続き地上の生命すべてに自由をもたらすために尽力している霊団が控え、味方になってくれております。

 プランというものがあるのです。あなたはその成就のための仕事に参加する栄誉を担っておられるのです。最後にはかならず成就されるのです。それを邪魔することはできます。遅らせることはできます。妨害することはできます。しかし、それによって神が計画を撤回なさるようなことは絶対にありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)文社、1987、p. 213

 

  76-zg (霊界とちがって地上では動物愛護運動に一致団結がない)

 一致団結というのは難しいものです。残念ながら地上においては往々にして原理・原則よりも個人的な考えが優先されます。立派な仕事にたずさわっているものの、時が経つにつれて初心を忘れ、一身上のことばかり考えるようになります。人間の煩悩の一つです。それは、つまるところ霊的理解力の欠如から生まれております。献身的に取り組んではいるものの、それは自分の思うように進んでいるかぎりの話です。自分の考えが正しいと思うのは良いとして、それが最高でそれしかないと自惚れはじめます。これが、地上で同じ仕事にたずさわっていて、こちらへ来てからもその成就のために援助している霊を困らせる問題の一つなのです。

 あなた方に心掛けていただきたいのは、容易なことではありませんが、その種の人間に個人的見解の相違を忘れさせ、基本の原理・原則に立ち帰って、最初にこの仕事に情熱を燃やした時の目標に向かって無心に努力するように指導することです。これは今たずさわっておられる動物愛護の仕事にかぎりません。他の分野においても言えることです。たとえばスピリチュアリズムと呼ばれている思想運動においても、自己顕示欲が強い人がいて、とかく自惚れが原因となって衝突が起きていませんか?

 私は善のための努力は絶対に無駄にされないと申し上げます。闘いはかならず勝利をおさめます。なぜなら背後に控える霊力は、それくらいのことでは押し止められないほど強大だからです。いかなる抵抗に遭ってもかならず退却せしめます。

 改革は私たちの世界から鼓吹されるのですが、同時に強大な霊力を具えた輝ける存在による祝福と協力とが与えられます。あなたは是非とも為さねばならないことへの情熱を失ってはなりません。善行への励みに嫌気がさしてはなりません。これは大切なことです。(嫌気を吹き込み、やる気を無くさせようとする邪霊集団の働きかけがあるから---訳者)勇猛果敢な精神を保持しなければいけません。あなたには為すべきことが山ほどあります。今のところあなたはそれを立派にやってのけておられます。どうにもならないと思える事態にいたっても必ず道が示されます。

 私の記憶では、ここにお集りの皆さんの誰一人として、克服できないほどの困難に遭遇された方はいらっしゃいません。時にはギリギリの瀬戸際まで待たざるを得ないことがあるかも知れませんが、きっと道は開けます。

 いかに美しいバラにもトゲがあります。見たところ不潔なものの中からきれいなものが出てくることがあります。大自然は両極性、多様性、付随的対照物、というパターンの中で営まれております。絶頂があればドン底があり、晴れの日があれば嵐の日があり、無知な人がいれば知識豊かな人がおり、戦争があれば平和があり、愛があれば憎しみがあり、真実があればウソがあり、弱みがあれば強みがあります。それぞれに果たすべき役割があります。

 進化の法則はそうしたパターン以外には働きようがないのです。弱点の中に長所を見出すことがあります。暗闇の中でこそ光明が見出せるのです。困難の中にあってこそ援助が得られるのです。夜明け前には必ず闇夜があるというのは陳腐な譬えですが、やはり真実です。これも人生のパラドックスの一つです。進化というのはそうしたパターンの中でこそ不易の目的を成就していけるのです。

 こうしたことを知ったからには、あなたは悲観なさる必要などどこにもありません。残虐行為の当事者たちが自分たちのしていることの極悪非道さを知らずにいることであなたが思い悩むことはありません。あなた自身も気づいていらっしゃらない要素がいろいろとあるのです。あなたも一個の人間に過ぎませんが、内部には神性という黄金の筋金が入っているのです。それこそがあなたの宝庫です。発電所です。イザという時のエネルギー源です。

 同志の中に手を焼かせる者がいたら、その人のことを気の毒に思ってやることです。道を間違えているのです。そういう人間を激しい口調で説き伏せようとしてはなりません。素朴な真理を教えてあげるだけでよろしい。そのうち分かってくれるようになります。

 あなたは今みずからの自由意志で選択した仕事にたずさわっておられます。神から授かったもっとも大切な贈物の一つと言えるでしょう。もしかしたら理性も思考力も挑戦欲も懐疑心も持てない、ただの操り人形、ロボットのような存在となっていたかも知れないのです。それが、反対にあなたには無限の神性が潜在的に宿されているのです。何かに挑戦することによってそれを引き出すことができるのです。その時の奮闘努力が霊のはがねを鍛えるのです。掛けがえのない絶好機です。霊がその純金の姿をあらわし神性を発揮することになるよう、どうか今こそあなたの気骨を示してください。

 挑戦にしりごみしてはなりません。闘うということは、霊的な目的意識さえ失わなければ、為になるものです。あなたより少しばかり年輩の魂である私から、最後にひとこと激励の言葉を述べさせていただきましょう。いついかなる時も永遠の霊的原理を指標としそれに頑固にしがみついているかぎり、あなたに、絶対に挫折はありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp. 213-217

 

 76-zh (交霊会に招かれたもう一人の動物愛護運動家へのことば)

 本日あなたにお出でいただいたことを非常にうれしく思っております。人類の啓発と、感性を具えたあらゆる形態の生命への慈悲心を教える仕事に献身しておられる神の僕をお迎えすることは大いなるよろこびです。

 その仕事が容易ならざるものであること、前途に困難が山積していることは私もよく存じております。しかし、霊の褒賞は、困難に直面した時ほど最大限の信念を堅持できる人にしか獲得できないのです。あなたは容易ならざる道を選んでしまわれました。私はけっしてあなたが今それを後悔していらっしゃると申し上げているのではありません。あなたはこの道をみずからの自由意志で選択なさったことを指摘しているだけです。もう分かっていらっしゃると思いますが、地上で先駆的な仕事にたずさわっている人たちはけっして孤独な闘いを強いられているのではない---霊界から大々的に援助を受けている事実を分かってほしいと思っている霊が大勢います。

 この分野の仕事は困難をきわめます。改めるべきことが沢山あります。が、残虐行為を一つでも終わらせる、ないしは少なくすることに成功すれば、その分だけ永遠の創造活動に参加したことになるのです。

 申し上げるまでもないことと思いますが、地上に共存する動物にも人間と同じように“奪うべからざる権利”というものがあります。進化の法則は地上の全生命を包括していること、一つとしてその働きの外にはみ出ることは有り得ないこと、形態はいかにさまざまであっても、すべてが一丸となって前進するものであること、すべての残酷な行為は、それが人間どうしであっても動物への仕打ちであっても、結局は生命の世界全体の進化を遅らせることになる---こうしたこともすべてあなたはすでにご存知と思います。

 この大切な分野において少しでも進展があれば、それは大きな勝利であると見なすべきです。私と同様あなたも、人類の進化が動物の世界全体と密接につながっていることをよくご存知です。献身と忠誠をもって人間に仕えている動物たち、また人間の進化によってその進化が促進されるようにと地上に生をうける動物たちに対する責任を人間が無視しあるいは忘れるようなことがあると、それは人間みずからの進化をも遅らせることになるのです。

 困難、戦争、貪欲、利己主義、こうした物質万能主義の副産物はすべて、人間が愛、情け、哀れみ、慈悲、好意といった霊的資質を発揮しないかぎり地上から無くなることはありません。そうした資質は神からの授かりものなのです。それが発揮できるようになるまでは、人間はみずからを傷つけることばかりします。乱獲や残虐行為の一つ一つが人間どうし、あるいは動物に対して害を及ぼすのは無論のこと、それが人間みずからの進歩を妨げることになるのです。

 地上の動物愛護運動の背後には偉大な霊の集団が控えております。そのリーダーといってよい立場にあるのが(※)地上で“アッシジの聖フランチェスコ”と呼ばれた人物です。霊界において活発にこの運動を展開しており、他界後に身につけた霊力をフルに活用してあなた方の仕事の成就を援助しております。

 (※ リーダーといってよい立場、というあいまいな言い方をしたのは、その上にも、そのまた上にも高級霊が控えて指揮しているからである。『霊訓』のイムペレーターも四十九名の霊団の頭であるが、その上にはプリセプターと名のる、直接人間界と接触できないほどの高級霊が控えていた。それは多分紀元前九世紀の予言者エリヤであろうとされているが、いずれにせよ最後に行き着くところは、地球圏に限っていえは、地球の守護神である。なお聖フランチェスコSan Francesco d’Assisi は十三世紀のイタリヤのカトリック修道士で、庶民的愛と清貧を主義とするフランシスコ修道会の創始者―訳者)

 問題に直面した時はそれをどう処理するかの決断を下さねばなりませんが、そんな時にいちばんお勧めするのは、瞑想状態に入って魂の奥へ引きこもり、神の声に耳を傾けることです。

 今あなたがたずさわっておられる仕事は、あなたご自身がお選びになったのです。この分野にも組織、協会、審議会などがいろいろとありますが、そうしたものは本来の機能を果たせないかぎり存在しても無意味です。この種の仕事は内奥の生命、霊的実在についての知識に目覚め、他の生命との霊的つながりを理解した者が、自分を役立てるという動機一つに鼓舞されて仕事に従事するということであらねばなりません。

 以上の私からのメッセージ、といっても、そう伝えるように言われたのでお伝えしたまでですが、それが少しでもお役に立てば、その代弁者となったことを私はうれしく思います。

 あなたのように闘いの最前線に身を置く者は、ひるむことのないよう鍛えられ試される必要があるのです。これまでの数々の体験は、そうした試練の中でも肝心な要素として用意されたものでした。すなわち霊の純金を磨いて浮き出させて、イザという時に霊力を引き出し、窮地に陥った時に引きこもって安らぎを得るために、その内奥の力、内奥の避難所の存在に目覚めさせることに目的があったのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp. 217-

 

  76-zi (動物愛護で時として取るべき方向に迷うことがある)

 その時点で正しいと思われたことをなさればよいのです。ただし、これが正しいということに確信がなくてはいけません。動機が純粋であれは、その後に派生してくるものも善へ向かいます。万が一動機が間違っていたことに気がつかれれば、その時は自分が責めを負えばよろしい。が、闘って敗れ、しかも動機にやましいところがなければ、もう一度気を取り直して闘いを挑むのです。

 われわれは闘士なのです。挑まねばならない闘いがある以上は闘士であらねばなりません。しかも、いま挑んでいる闘いは、あらゆる闘いの中でも最大の闘いではないでしょうか。無知と愚行と利己主義と迷信---光明に逆らう闇の勢力すべてとの闘いです。抑圧と残虐と略奪と無用の犠牲(動物実験)に対する闘いです。ぜひとも勝たねばならない大規模な闘いです。

 あなたがもしたった一つの残虐行為でも止めさせることができれば、あなたの全人生が生き甲斐あるものとなります。その無益な残虐行為こそ、地上から完全に駆逐するまでわれわれは何度でも闘いを挑まねばなりません。見た目にいかに抵抗が大きくても、決してひるんではなりません。かならずや勝利はあなた方のものとなります。

 あなた方が望んでいる改革のすべてが、あなたの在世中に成就されるとはかぎりません。しかし、そのうちの一つでも、二つでも、あるいは三つでも成就されれば、あなたが地上に存在した意義があったことになります。

 時どき私は、この仕事に没頭しておられるあなた方に、できることなら私たちの世界の動物が一かけらの恐れも怖じ気もなく安らかに仲良く暮らしているところを一度ご覧に入れたいものだと思うことがあります。そこはまさに動物にとっての天国なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp. 221-222

 

 

  76-zj (動物も人間と同じく物的身体を具えた霊である)

 悲しいかな、霊的発達の未熟さゆえに人間は、自分を生かしめている霊力が地球を共有している他のすべての生命体を生かしめている霊力と同じであることに理解がいかないのです。動物も人間と同じく物的身体を具えた霊であることが理解できないのです。

 われこそは万物の霊長であると信じているのであれば、それゆえにこそ動物に対する責務があるはずなのに、人間はそこが理解できないのです。上の者が下の者を手助けするのが当たり前です。しかるに現実は、罪もない動物に無用の残虐行為を情け容赦なく行っております。しかもそれは人間の健康増進のためと信じてのことなのですが、それは間違いであり、そういう手段から健康は得られません。

 そうした邪悪で悪魔的でさえある実験を完全に阻止するためにも霊的真理の普及が急務なのですが、これは永い時間の掛かる問題です。いま自分たちが行っていることが間違いであることに気づいて良心の苛責を覚えるようになるまで、霊性が発達するのを待たねばならないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)潮文社、1988、pp. 198-199

 

 

  76-zk [79-j] (なぜ動物は人間によって苦しめられねばならないのか)

 ― なぜ動物は人間の手によって苦しめられねばならないのでしょうか。人間の霊的成長の試金石となるために地上に置かれているのでしょうか。もっと高い進化の段階に達している別の天体へ置かれていれば、そこの住民に可愛がられて霊的進化も促進されるはずですが……

 それと同じ疑問が人間についても言えませんか。つまり、なぜ人間は地上で同じ人間の手で苦しめられねばならないのかということです。なぜ苦しむことのない、どこか別の世界へ置いてもらえないのでしょうか。

 理解しなければならないのは、地上というところは予備校ないしはトレーニングセンターであって、その目的は内部の神性を可能なかぎり発揮する機会を提供することである、ということです。

 人間には、ある一定限度内での話ですが、自分の行為を決定する自由意志が与えられております。その自由選択の結果として地上あるいは霊界における進歩を促進もすれば阻止もするという、そういう体験の繰り返しの中で霊性が発達し、少しずつ不完全な部分を棄てて行くことになるのです。

 自由意志があるということは、その当然の可能性として、それを間違ったこと、愚かしいこと、報復的なことに使用する者もいることになり、その結果として苦しむ人も出てくることになります。もしも神が動物も人間も申し分のない状態であることを望まれたならば、地上にもあるいは霊界にも存在していないでしょう。とっくに完全の頂上を極めていることでしょう。しかしそれは有り得ないことなのです。なぜなら、完全とは永遠に続く過程のことだからです。

 動物への虐待行為を阻止するには、いろいろとしなければならないことがあります。善の勢力と悪の勢力との戦い、真理を知った者と無知な者との戦いが延々と続いております。また、動物にも地上で果たしている役割があること、人間が住む権利があるのと同じ意味において動物も地上に住む権利があることが、どうしても理解できない近視眼的な人種もいます。これからも戦いは続きます。が、真理は必ず勝利を収めます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)潮文社、1988、pp. 199-201

 

 

  76-zl (進化の鉄則は人類を含めてすべての動物を包摂する)

 ―人間とともに進化を続けている鳥類や魚類は次は何になるのか教えていただけないでしょうか。それは、いわゆる“精霊進化”に属するのでしょうか。昆虫は次は何に進化していくのでしょうか。昆虫の中にはとても進化していて独自の複雑な“文明”すら持っているように思えるのが多くいますが……

 まず“文明”という用語はここでは適切でないと思います。いかなる生活にせよ、文明とは社会および生活様式に適応していくための手段のことです。

 さてご質問の意味ですが、一羽の鳥がやがて一人の人間になっていくのかということであれば、答はノーです。精霊進化というのは妖精およびそれに類する存在に関わる自然的生命の進化のことです。自然界の成長の中で果たす役割があるのです。進化とは全生命に関わる自然法則の一環であって、それは神の愛の証しでもあります。低い次元から高い次元へ向けての不断の向上のことです。

 進化の鉄則はすべての生命、すなわち昆虫類、鳥類、動物、そして人類のすべてを包摂しています。それぞれに果たすべき役割があり、しかもお互いに関連し合っております。孤立しているものは一つもありません。全体として完全な複合体を形成しているのです。あなた方人間も、動物の進化に関連した法則と同じ法則によって支配されているのです。

 その自然法則に従って生活していれば、言いかえれば自然法則と調和していれば、あなたは天命を全うできると同時に他の生命の進化を助けることにもなります。各自が協調的要素としての役割を果たすように宇宙の全機構ができあがっているのです。協調とは反対に自然に逆らった行為に出る者は、その逆らった対象だけでなく自分自身に対しても酷い仕打ちをすることになります。自然と協調する者は自然の発達を助けると同時に、自分白身の霊性の開発をも助長することになるのです。

 ― ということは、われわれは人類として特別の存在ではなく、大自然の進化の過程の一部にすぎないということになるのでしょうか。

 人類も生命の永遠の営みの一部にすぎません。その中にあってもし人間がオレたちは他の生物よりも特別に高等なのだと自負するのであれば、ちょうどあなた方が霊界の高級霊からの援助を求めるように、他の下等な生命を援助してやる義務があるはずです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)潮文社、1988、pp. 201-203

 

 

  76-zm (動物の世界には“高等な生命”というものはあるか)

 ありません。それぞれの種にそれぞれの進化のコースが割り当てられているのです。生命として存在しているものは、霊であるからこそ存在できているのです。霊は生命であり、生命は霊です。それゆえ、生きとし生けるものすべてが― 小鳥も魚も花も木も果実も、みな霊なのです。高等とか下等とかいうのは、その無数の生命現象の中にあって、他の生命にくらべた場合の進化の到達度を言っているにすぎません。人類は魚類にくらべれば高い発達段階にあるかも知れませんが、私たちの世界の神庁に所属する神霊にくらべれば低いことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)潮文社、1988、p. 203

 

 76-zn[25-e] (動物を虐待した者は霊的代償を払わねばならなくなる)

 ― 動物保護運動がなかなか思うにまかせません。むしろ悪化の一途をたどっているように思えます。 それは人間に自由意志が与えられていることから生じる当然の結果です。もしも何一つ問題がなく闘争もなく犠牲が強いられることもなく困難も生じなかったら、人間は進歩しません。進歩は困難に遭遇した時に得られるのであって、気楽な生活の中では得られません。それぞれの魂が内在する力を引き出すための努力をするように何らかの試練の時に遭遇するというのが、進化における不可欠の過程の一つなのです。

 進歩の速い面もあれば遅い面もあります。とにかく同じ地球を共有する他のすべての存在と仲良くするということが人間の責務です。が、どっちへ転んだところで自然の摂理による埋め合わせがあります。動物が動物なりの進化のコースをたどるように配慮するのは人間の責務です。それを怠れば、人間はそれなりの代償を払わねばなりません。動物に残酷な仕打ちをしている者は、いずれその行為の一つ一つに霊的代償を払わねばなりません。

 悲しいかな、苦しめられるのはいつも罪のない側です。が、自然の摂理は曲げられません。殺人を犯せば殺した方はその償いをしなければなりませんし、殺された方にはその犠牲の埋め合わせがあります。埋め合わせの原理は間違いなく働きます。神は一人一人の人間にきちんと賞罰が計算されるように公正の原理を定めておられます。

     『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)潮文社、1988、pp. 203-204

 

  76-zo[58-x] (生物同士が共存共栄しながら生きていくのが自然界の原則)

  ― 自然界では“強い者”が生き残っているように思えるのですが、そうなるとその原則は人間界や霊的なことにはどう適用されるのでしょうか。

 相利共生(二種類の生物が相互に利益を得ながら生活すること)という言葉をお聞きになったことはありませんか。これが自然界の原則ではないでしょうか。互いに協力し合うことによって自然界がその目的を果たしていく、というのが基本原理ではないでしょうか。

 樹木が大気中の炭酸ガスを吸収しそれを酸素にして排気する。それを人間が呼吸して生命を維持する。これが調和、協調、つまりは自然の力の働きではないでしょうか。

 ― 私はとくに動物のことを念頭において質問したのですが……

 有史以前の動物の中で現在まで生き残っているのはどの種類でしょうか。たとえば象がいます。象はどう猛な動物だったでしょうか。そうではありません。草食動物であり、他の動物を襲ったりしませんでした。なのに生き残っており、他の肉食動物は滅びています。どっちが“強い者”でしょうか。

 あなたも庭をお持ちなのでご存知でしょうが、自然の摂理を大切にすれば立派な庭になり、摂理を無視すれば台なしになります。人間同士だけでなく動物に対しても情愛を向けないといけません。他の人間を搾取してはいけません。動物を搾取してはいけません。大自然を搾取してはいけません。

 そういう心掛けで生きれば、人間だけでなく地上に生きているすべての存在が、宇宙最大の力すなわち神によって考案された進化の法則の究極の目的である平和と秩序と調和を手にする上であなたも貢献していることになるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)潮文社、1988、pp. 205-206

 

 

  76-zp[17-zk] (動物実験を続ける限り人間の真の健康と福祉は促進されない)

 人間の健康を動物の犠牲のもとに獲得することは神の計画の中にはありません。すべての病気にはそれなりの治療法が用意されております。その神の用意された自然な方法を無視して動物実験を続けるかぎり、人間の真の健康と福祉は促進されません。動物はそんな目的のために地上に生をうけているのではありません。真の健康は調和です。精神と霊と肉体の正しい連係関係です。三つの機能が一体となって働くということです。これは動物を苦しめたり体内から特殊成分を抽出したりすることによって得られるのではありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)潮文社、1988、p.208

 

 

  76-zq (人類が苦しめている動物も解放してやらねばならない)

 解放されなければならないのは女性だけではありません。男性だけでもありません。子供だけでもありません。人類によって苦しめられている動物も解放してやらねばなりません。霊はつねに自由であるべきです?物的な何ものによっても束縛されるべきではないのです。物的身体は霊が存分に自己表現をする手段として与えられているのであり、解放とはそれを制約するものすべてを取り除いてあげることです。
    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)潮文社、1988、p. 232

 

     参照 武本昌三先生HP http://www.takemoto-shozo.com/

 

全てのいのちがしあわせでありますように